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陵辱ゲームは悪か?

 まだはっきりとはしませんが、ソフ倫が陵辱ゲームを禁止にするとかいう噂が流れていますね。こちらも陵辱ゲームを置いているので、展開が気になります。

 そこで、私の考えを述べさせていただきますと、創作物において主体と客体は明確に分離できるものではありません。想像の中の世界では男も女になりうるし、女が男になることもできます。したがって、陵辱的な内容であっても、それは男性が一方的に女性を性欲のはけ口にしていると見るのは短絡的です。

 では、男性が女性になって陵辱されたいと思うことはあるのでしょうか?

 多くの少年は、白馬の騎士となって魔王を倒し、姫君を救出することを夢見るでしょう。しかし、だれもが勝者となれるわけではありません。勝者がいれば敗者もいるわけで、一定の割合の者は敗者にならざるをえません。

 すると、もはや騎士に己を擬することのできない者が出てくるわけです。そこで彼は魔王の方に己を擬そうとします。彼は想像の世界で魔王になって、騎士を倒し、姫君を陵辱します。しかし、それは逃避であるわけです。現実の彼は敗北した騎士の側なのですから。

 そして、陵辱されている姫君は彼の潰えた夢の象徴なのです。そう考えれば、姫君は単純に彼の客体ではないわけであり、それもまた彼の主体の一部なのです。

 姫君が屈辱と絶望のどん底でなおも気高く誇りを失わないとするならば、それは彼自身のどん底から這い上がろうという意欲を象徴するわけです。あるいは姫君はまったく絶望してしまうかも知れません。しかし、絶望が癒しとなり、希望が苦痛となる場合もあるのです。最初から何も期待しなければ、失望することもないからです。

 このような妄想を抱くのは、社会的敗者だけではありません。一見、社会的に成功しているように見えても、少しも自由に生きていない者はいるのです。たとえば、まったく親の言いなりになって、一流大学に入って一流企業に就職したものの、まるで主体性がないような場合です。

 まったく邪念のない人間はほとんどありえません。だれも邪念を抱きながら、それを抑えて生きています。大学教授や裁判官だって、時として魔が差し、痴漢などをしてしまう場合があります。

 そして、このような邪念は努力して意識から追い払っても、無意識の領域に追いやられるだけで、消滅するわけではないのです。無意識の領域に追いやられた想念はさまざまな心の病を引き起こします。ただ邪念を押さえつけるのは、心理学的に見て得策ではないように思えます。

 したがって、人は心の影とうまくつきあって生きていかなければならないわけですが、創作物であれば、だれを傷つけるわけでもないし、そのような世界に己の心の影を投影し精神の補償を得ることは、ストレスを軽減し、現実の犯罪を防ぐ効果があるように思われます。

 私は心理学者じゃないんで、間違っているかもしれませんけどね。

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